山中川男と情報システム担当者のオープンソース化計画

ベンダーロックインからの脱却を目指すすべての方と共に

考察とか分析とか言ってるけど根拠あるの?

お疲れ様です。

山中川男です。

 

社内の会議やなんかで、考察だとか分析だとかいう言葉をよく耳にします。

でも、それって、何をもって考察だとか分析だとかと言っているんでしょう。

 

個人の感覚でしょうか?

それともインスピレーション?

はたまたなんとなく?

 

例えば、会議で”目標の進捗状況について述べよ”と指示があったとします。

”だいぶ進んでいます”

”象さんのハナくらい進んでます!”

”結構進んでます!”

 

このような回答で相手には伝わりますかね?

おそらく”この人ダメなのかな”ってことは確実に伝わるでしょう。

 

そもそも、考察とか分析って、目標や計画、それに対する実績なんかの数値を用いてしますよね。

つまり基本は客観的な数値の比較ってやつです。

だから、数値が出てこない考察とか分析って基本的には意味ないんですよね。

まぁ定性分析なんかで、一部数値によらないところはあると思いますが。

ただそれでさえ、例えば顧客から頂いた意見のように、客観的な根拠とは言えると思います。

 

客観的な数値など=客観的根拠として、

客観的根拠に基づかない考察や分析って、なにを根拠にしているかって、

個人の主観とか感覚なんですよね。

 

じゃぁ会議に出席した人たちがみんな、個人の主観とか感覚で議論するとどうなるでしょう。

まぁまとまらないでしょうね。

結論も出ないと思います。

なんでって、それはそもそも論点が一致しないからでしょう。

ベクトルで言えばずっとねじれの関係なわけです。

一生交わりません。

 

何が言いたいかって言うと、私は決して、個人の主観とか感覚を排除しようと言いたいわけではないんです。

ただ、最低限の振り返り(検証)ができる程度には根拠を追求しよう、って言いたい。

それがなければ、成長するわけないですよね。

良かったことも悪かったことも振り返らない(次に活かさない)んだから。

 

あと最後に、あえて最近の若者って表現をさせて頂くと、最近の若者は、昭和の精神論とかには基本的についてきてくれません。

そんなことしてるとすぐ辞めちゃいます。

だからスタッフのマネジメントにも客観的な根拠もたせないとキツいです。

客観的な根拠の上に、マネージャー独自の信念だったり美学で味付けすればいいんです。

 

後者はくれぐれも空回りしないようにね。

 

 

 

以上、かわおでした。